【10月8日 AFP】フランス・パリ市内で4日、ジャンポール・ゴルチエ(Jean Paul Gaultier)が手がける「エルメス(HERMES)」が新作を発表した。サボテンと砂がセットされたメキシコ国境の砂漠地帯のようなステージに現われたのは、ポンチョやフリンジなどのディティールをラグジュアリーに仕上げたエルメス流ウエスタンスタイル。ショーの幕開けを飾ったスーパーモデルのステファニー・シーモア(Stephanie Seymour)とナオミ・キャンベル(Naomi Campbell)も、カウボーイハットとフリンジスカートに身を包んだ。ウォッシュドデニムのような絶妙なグラデーションに染め上げたクロコダイルレザーのジャケットやキャラメル色の薄いジャケットも登場。スウェードのつば広ハットやエルメスの頭文字付きカウボーイハットなどがウエスタンな気分を盛り上げた。コレクションに際し、ゴルチエが新作について語った。(c)AFP/parismodes.tv
〜カンタン豆知識〜
■ジャン=ポール・ゴルティエ(Jean-Paul GAULTIER, 1952年4月24日 - )はフランス・パリ生まれのファッションデザイナーであり、また彼の持つファッションブランドである。
祖母がお針子で洋裁の基本を幼時から遊び乍ら身に付け、デザイナーになるための教育は受けなかったという。その代わり、自分のスケッチをスタイリストなどに送り、認められてピエール・カルダンのアシスタントになった。
1976年に初めて自分のレディース・コレクションJean-Paul GAULTIERを発表。
1978年にオンワード樫山とスティリスト契約を結び独立。
1980年代には下着ルックやボンデージ・ファッションなどを発表して話題になった。
1984年春夏からメンズ・コレクションを発表。
1997年春夏コレクションからオートクチュール・コレクションGAULTIER PARISも発表している。
2004年秋冬からエルメスのレディース・プレタポルテのデザイナーも兼任している。
映画の衣装もしばしば手がけている。
「フィフス・エレメント」(リュック・ベッソン)、
「コックと泥棒、その妻と愛人」(ピーター・グリーナウェイ)、
「キカ」(ペドロ・アルモドバル)
「ロスト・チルドレン」(ジャン・ピエール・ジュネ)などは彼の作品である。
マドンナの舞台衣装も製作したことがある。また、クリス・カニンガムが手掛けたプロモーション・ビデオFrozenでもマドンナは彼のドレスを着ている。
日本のアーティストにもファンが多く、80年代に活躍したBO?WYの衣装を手がけたり、1989年には、THE ALFEEのライブとゴルティエのファッションショーが融合したイベントツアー「THE ALFEE with Jean-Paul GAULTIERツアー」を催した。
このツアーでは、ALFEEのメンバーの衣装をJean-Paul GAULTIERで統一。前半と後半の間では15分間のファッションショーが催された。
宝塚歌劇花組公演「SPEAKEASY〜風の街の悪党たち」(1998年上演)や星組公演「プラハの春」(2002年上演)の衣装も手がけたことでも知られている。
■エルメス (Herm?s) は、フランスの会社、エルメス社が展開するファッションブランド、商標名のこと。エルメス社は馬具工房として創業したが、自動車の発展による馬車の衰退を予見し、鞄や財布などの皮革製品に事業の軸足を移して成功した。
現在でも、馬具工房に由来するデュックとタイガーがロゴに描かれている。デュックは四輪馬車で、タイガーは従者のこと。主人が描かれていないのは「エルメスは最高の品質の馬車を用意しますが、それを御すのはお客様ご自身です」という意味が込められているため。
〜 歴史 〜
エルメス社の母体になったのは、ティエリ・エルメス(1801年 - 1878年)が1837年に開いた馬具工房である。ナポレオン3世やロシア皇帝などを顧客として発展した。
ティエリの孫にあたる3代目のエミール・モーリス・エルメス(1871年 - 1951年)は事業の多角化に着手した。
1890年代には、馬具製作の技術を基にエルメス最初のバッグサック・オータクロア (sac haut-?-croire) を製作。
1927年に時計を発表。さらに服飾品・装飾品・香水などの分野にも手を広げ、それらの製品のデザイン、製造、販売をすべて手がける会社になった。
特に馬蹄柄のスカーフとケリーバッグで人気を獲得していった。ケリーバッグは1935年に発売されていたが、当初は「サック・ア・クロア」 (sac-?-croire) と呼ばれていた。後に女優のグレース・ケリーが愛用、特にカロリーヌ公女を懐妊し、写真を撮影された時とっさにお腹を隠したのがこのバッグであったことから有名となり、1955年に正式に改名された。「サック・ア・クロア」=ケリーバッグは本来、サドルバッグ(鞍に付けるバッグ)を婦人用に改良した物である。
ケリーと同様の人気を誇るバーキンの名も、当時のエルメス社社長であったジャン・ルイ・デュマ・エルメスが飛行機の中でたまたまイギリス出身の女性歌手ジェーン・バーキンと隣合わせになり、彼女がボロボロの籐のカゴに何でも詰め込んでいるのを見て、整理せずに何でも入れられるバッグを作らせて欲しいと申し出たエピソードに由来する(なおバーキンの原型はオータクロアであるが、いまやオータクロアをはるかにしのぐ人気である)。
このように、エルメスのバッグには発注者ないし最初の所有者の名が付いたモデルが多く存在する。比較的時代が新しいものでは、スーパーモデルのエル・マクファーソンが発注したエル(巾着型で、底の部分に化粧品を入れるための外から開閉可能な引きだしが付いている)、日本人男性が発注した大型旅行鞄マレット・タナカがある。
日本では女性の支持率が高いが、バッグなどでは男性からの支持も高く人気も絶大であり特にフールトゥやエールラインは価格も手ごろなために定番バッグとして活躍している。
またエルメス社が初めて作った社史は 漫画形式で、日本の漫画家竹宮恵子に依頼して制作した。
2004年、マルタン・マルジェラの後継として、ジャン=ポール・ゴルチエがデザイナーに就任。
2004年パリ・コレクションではエルメスの伝統である馬具・皮革製品を意識し、伝統に配慮しつつ、オレンジ・黒を中心とした鋭角的でかつブランドの風格を意識したデザインを発表した。
〜 エルメスグループの拡大 〜
80年代から90年代にかけエルメスはシャツや帽子を発注してた会社を次々と買収していたが リシュモン(カルティエの母体)やLVMH(ヴィトンの母体)と異なり 職人技の維持を第一目標にしての事で、そのため買収対象は比較的小規模の会社に止まっている。
〜 エルメスと日本 〜
日本初の直営店は、1978年に丸の内にオープンしたブティックである。エルメスの日本法人「エルメスジャポン」は1983年にエルメス社と西武百貨店との合弁で設立されたが、後にエルメスの100%子会社に移行した。
エルメスの出店は西武系に限られず、大手百貨店の根幹店には比較的多く出店している。だが、三越にはあまり出店していない。これは、岡田茂社長時代、三越がネクタイ売り場でエルメスの贋物のネクタイを多数そうと知りながら販売していたことによる(本店直輸入の札を付けて販売していた事や、正貨で贋物を販売していた事がフランス本社の逆鱗に触れた)。
なお、昭和天皇が1971年の訪仏時に身に付けていたネクタイも、御用達百貨店であった三越日本橋店のネクタイ売り場で購入されており、贋物であった。
参考資料 Wikipedia