2008年10月28日

高橋尚子 現役引退へ Qちゃんおつかれさまでした♪


【10月28日 AFP】陸上、シドニー五輪女子マラソンで金メダルを獲得した高橋尚子(Naoko Takahashi)が現役を引退することが明らかになった。

 高橋のマネジメント会社は28日、アテネ五輪と北京五輪で代表に漏れ、更なる栄光を掴む夢を打ち砕かれた高橋が、同日午後に都内のホテルで記者会見を行い、引退を発表することを明らかにした。

 高橋は、シドニー五輪の女子マラソンで優勝を果たし日本人選手として初めて五輪の同種目で金メダルを獲得、その後2001年の第28回ベルリン・マラソン(28th Berlin Marathon)では2時間19分45秒を記録し世界新記録(当時)を樹立した。

 しかし、高橋は度重なる怪我に苛まれ、2007年8月には右ひざを手術している。アテネ五輪の代表に漏れた後、高橋は米コロラド(Colorado)州、ロッキー山脈近くのボルダー(Boulder)で練習を積み、北京五輪出場に全力を注いだ。しかし、代表選考レースで高橋は2時間44分18秒の27位に終わり、出場の夢は叶わなかった。(c)AFP


 いろいろありましたが、これからもガンバて下さいね♪

 お疲れさまでした^^

〜カンタン豆知識〜

 高橋 尚子(たかはし なおこ、1972年5月6日 - )は、女性マラソン選手。岐阜県岐阜市出身。血液型はO型。2000年シドニーオリンピック女子マラソン競技で日本人女子陸上競技選手初となるオリンピック金メダルを獲得。オリンピック記録保持者(2時間23分14秒)。女子マラソンの元世界記録保持者。
 爽やかな笑顔と前向きな生き方から多くのファンを生み出し、社会人時代初期から引き継いでいるQちゃんの愛称で親しまれている。

■学生時代■
 父親、母親ともに教育者。
 中学から陸上競技を始め、藍川東中学・県立岐阜商業高校・大阪学院大学商学部を卒業。
 県立岐阜商業高校時代は800mの選手で県予選岐阜県1位であったが、全国インターハイでは予選で敗退となった。全国都道府県対抗女子駅伝にも出場した。
 大阪学院大学時代は日本インカレで1993年、1994年と2年連続で、1500mで2位、3000mで3位。また1993年の高橋が大阪学院大学陸上部で初めて日本インカレの表彰台に上がった選手である。全日本大学女子駅伝、全国都道府県対抗女子駅伝などでも活躍した。
 大学在学中、教師になるために母校県立岐阜商業高校で教育実習を受けていた。だが、実業団数社から勧誘がきており、大学卒業後の自分の進路について、教師になるか実業団で陸上を続けるか悩む事になる。陸上を続けるなら勧誘されていた企業ではなかったが、小出義雄監督率いるリクルートが一番との高校時代の恩師からの助言もあり、リクルートに入社する事になる。
■リクルート時代■
 1995年に小出義雄が陸上部監督を務めるリクルートに入社。しかしスカウトされての入社ではなく、自ら売り込んでの入社であったとのことである。この事から小出からは「有森裕子二世」と期待されるようになった。
当初はトラックランナーであった。1997年の世界陸上競技選手権アテネ大会の女子5,000mに出場。予選レースを通過するも、決勝レースの順位は13位だった。1998年5月のIAAF国際グランプリシリーズ大阪大会(長居スタジアム)の女子5,000mで優勝している。
 1997年1月26日に大阪国際女子マラソンを初マラソンの舞台とする。この時、小出は各種メディアにイチオシの選手として紹介していた。しかし中間点を過ぎた後、先頭争いから脱落してペースダウンとなり、初マラソンは2時間31分32秒の記録で7位に終わる。 1997年4月、小出がリクルートを離れ積水化学へと移籍する。これにともないチームメンバーとともに高橋も積水化学へと移籍することになった。
■積水化学時代■
 高橋が女子5,000mで出場した1997年8月のアテネ世界選手権で、高橋が練習パートナーを務めていた先輩の鈴木博美が女子マラソンで優勝した。 これを沿道で応援していた高橋は先輩の鈴木の優勝を喜ぶと同時に、自分ももしかしたら3番か4番にはなれたかもしれないと漠然とながらも感じ、初マラソンを経験していたこともあり次第にマラソンへの思いが強くなっていった。そこに監督の小出の強い勧め(高橋はマラソンで世界一になれる)などもあり、高橋は本格的にマラソンランナーへと転向していく事になる。
 翌年の1998年3月8日の名古屋国際女子マラソンでは、30km地点まではスローペースの先頭集団に目立たない位置でついていた。その後30kmを過ぎてから、小出の「ここからいけ!」の号令に、高橋は猛烈なスパートを開始、間もなくして高橋の独走となる。レース後半の驚異の追い上げを見せて、ゴールタイムは2時間25分48秒という日本最高記録(当時)をマークしてマラソン初優勝を果たした。
 同年12月6日のバンコクアジア大会女子マラソンは、最高気温30度を超す高温多湿のレースとなったが、スタート直後から独り飛び出した高橋は、5kmラップが16分台のスプリットを刻むハイペースで突っ走り、30kmまでは世界記録を更新するペースで進んでいた。さすがに30km以降は17分台のスプリットに落ち込んだものの、独走一人旅で2位とは13分以上の差をつけ、亜熱帯地方特有の高温多湿の気温30度を超す最悪な条件のなか、2時間21分47秒のアジア最高記録(当時)で優勝。自身の持つ日本最高記録を4分以上も更新して世界最高記録(当時)まで1分というところまで縮めた。
 また、女子マラソンがアジア大会で初めの開催種目だったので、その後の日本選手の士気を高めて金メダルを量産する原動力となった(当大会で男子100mの日本記録を更新した伊東浩司はそのように取材で述べていた)。そして高橋は、一躍シドニーオリンピック女子マラソンの金メダル最有力候補として、世界から注目を集めることとなる。
 1999年8月29日のセビリア世界陸上の女子マラソン代表に選ばれていたが、レース直前に左膝を痛めたため、無念の欠場となる。その後も高橋は左腕を骨折したり、食あたりによる腹痛を起こすなどアクシデントが続いた。2000年3月12日、五輪最終選考会となった名古屋国際女子マラソンに出場。高橋の体調は万全では無かったが、2年前の同大会以上の前半より後半3分以上あげる驚異的なネガティブスプリットを見せて、2時間22分19秒の大会新記録で優勝。これにより、シドニー五輪代表の切符を獲得となった。
■五輪優勝・世界記録達成■
 同年9月24日のシドニー五輪女子マラソンでは、18km付近で高橋自ら先頭集団を抜け出しスパート、この時点で世界記録保持者のテグラ・ロルーペは脱落、一気に集団がばらける。その後26km辺りからリディア・シモン( ルーマニア)と激しくデッドヒートを演じるが、高橋は34km過ぎでかけていたサングラスを沿道の父親に投げ飛ばしたと同時に、スパートをかけてシモンを突き放した。スタジアムのトラックでシモンに追い上げを受けるも、そのまま逃げ切り日本陸上界悲願の優勝ゴールテープをきった。五輪での高橋の常にレースを引っ張る堂々たる走りは、ゴール後のさわやかな笑顔とともに、世界のマラソンファンに強い印象を与えた。
 高橋の五輪での金メダル獲得は、日本陸上界64年ぶり戦後初の快挙であるとともに、日本女子陸上界においては史上初の快挙だった。またゴールタイムの2時間23分14秒は、ジョーン・ベノイト( アメリカ合衆国)がロサンゼルス五輪でマークしたタイムを16年ぶりに更新する五輪最高記録である(この記録は今もなお破られていない)。これらの功績により国民栄誉賞を受賞(2008年現在、高橋は最後の国民栄誉賞受賞者である)。
 2001年9月30日のベルリンマラソンでは、女子初の2時間20分突破となる2時間19分46秒の世界新記録(当時)で優勝。前世界記録保持者はテグラ・ロルーペ( ケニア)の2時間20分43秒で、1分近くの更新であった。高橋の世界記録樹立での優勝は、女性初のサブ20達成での歴史的快挙とともに、日本女子マラソンがついに世界記録を更新した瞬間でもあった。(2008年現在、高橋は女子マラソン世界記録を更新した、ただ一人の日本人選手である。また女子マラソン世界記録保持者が五輪金メダルを獲得した選手としてはアメリカのジョーン・べノイトのみいるが、五輪金メダリストとして女子マラソンの世界記録を更新した選手は日本の高橋のみである)。(現在の世界記録保持者はポーラ・ラドクリフ( イギリス)。
 高橋は翌2002年9月29日のベルリンマラソンにも出場。このレースは通常より1ヵ月間短いマラソン練習で臨み、レース途中に足の肉刺を潰すアクシデントもあったが、2時間21分49秒の記録で2年連続優勝を果たし、フルマラソン6連覇を達成した。この試みはベルリン出走からわずか1か月半後の2002年11月17日の東京国際女子マラソンへの出場も睨んでいた為であった。しかし、東京のレース数日前に胸の激痛が引かない為診断した結果、肋骨の疲労骨折を起こしている事が判明し東京は欠場、この為、連覇を狙う五輪代表最短切符になる2003年パリ世界陸上は断念する事になった。
■スカイネットアジア航空(佐倉アスリート倶楽部)時代■
 その後高橋は2003年2月に積水化学を退社、同年6月にはスカイネットアジア航空とスポンサー契約を結び(2005年5月迄)、前年12月に同じく同社を退社した小出監督の指導を引き続き受けることとなる。
 2003年11月16日の東京国際女子マラソンで、翌2004年のアテネオリンピック代表選出を目指して出走。この時期の平均気温より約10℃高い、季節はずれの気温24〜25℃という高温と風速3〜6mの風の舞う中、スタート直後から高橋自ら飛び出しハイペースでレースを展開、中間点を過ぎてからスパート、独走状態となり完全に勝負はついたと思われたが、30km手前からスタミナ切れを起こしたのか急激に失速してしまう。39km地点でエルフェネッシュ・アレム( エチオピア)に抜かれて、日本人トップの座は死守したものの、ゴールタイムは2時間27分21秒でまさかの2位と6年10ヶ月ぶりに敗れ、マラソンの連勝記録も6でストップとなってしまった。その後、代表選考は選考基準が不明瞭であるため難航することになる。コース・気象条件なども違う東京、大阪、名古屋の3レースの上位選手から2名を選ばなければならず、結局、優勝出来なかった事とゴールタイムも悪かった事などの理由で日本陸連の選考で落選。高橋のアテネ五輪代表の切符獲得はならず五輪連覇の夢は潰える事になった。
 しかし、これまでの高橋はシドニー五輪以降も毎年マラソン大会で高いレベルの記録で優勝という結果を残した、連戦連勝の五輪ディフェンディングチャンピオンであり、また女性で初めて2時間20分突破となる世界記録まで樹立した日本記録保持者(当時)。実績を全く考慮することなく、五輪連覇への挑戦が潰えたことを惜しむ人々の声も非常に多く賛否両論で大きな騒動となった。テレビ各局は高橋と小出監督の会見をNHKなど全局生放送で伝え、翌日の一般紙・スポーツ紙の各新聞社は全紙、高橋落選を一面トップで伝えた。
■ファイテン(チームQ)以後■
 2005年5月9日、リクルート時代からの約10年に及ぶ小出との師弟関係を解消する事を発表。高橋と小出が二人揃っての記者会見を行なった。
 2005年6月、ファイテンと2009年5月までの4年間の所属契約を結んだ。なお同社陸上部とは別に「チームQ」として活動。
 2005年11月20日、東京国際女子マラソンに出場。右足のふくらはぎに軽い肉離れのケガを抱えていることをレース前日に公表、当日はテーピングをしての出走となり、終盤35km過ぎまでは様子をみながら自重していたが、35km過ぎに高橋がスパート、2年前まさかの失速で優勝をさらわれたエルフェネッシュ・アレムなどをおきざりにして独走となり2時間24分39秒でゴール、2年ぶりのマラソン復帰レースを優勝で飾った。
 2006年11月19日、2年連続で東京国際女子マラソンに出場したが、31km付近で優勝した土佐礼子に突き放され、39km地点では2位の尾崎朱美にもかわされる。右足ふくらはぎなど


posted by 大翔 at 22:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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