ムハンマド率いるイスラーム共同体は周辺のベドウィン(アラブの遊牧民)の諸部族と同盟を結んだり、マッカの隊商交易を妨害したりしながら急速に勢力を拡大していきました。
624年 この動きを警戒したマッカの支配部族であるクライシュ族率いるマッカ軍は、マディーナに侵攻して後に言われるバドルの戦いを仕掛けます。
この時、マッカ軍が1000名であるのに対して、マディーナ軍は300名の劣勢でしたが、なんとマッカ軍に大きな損害をあたえてマディーナ軍が勝利してしまいます。

このバドルの戦いで圧倒的に有利であったはずのマッカ軍を奇跡的に破って勝利を収めたことで、イスラームとムハンマドの名声は広く周囲に轟きました。
これに焦ったマッカ側はマディーナ市内のユダヤ教徒に目を付け、マディーナ側の内部分裂を画策します。その一方で、勇猛なアラブ騎兵200を含む3000の軍勢を率いてマディーナ郊外のウフド山に布陣しました。
●ウフド山の戦い。

兵の質も量もマッカ軍に劣るマディーナ側は、篭城論が主流でした。マディーナ市内のユダヤ教徒の動向が不安材料だったこともあったようです。
そんな時、マッカ軍はつれて来た200頭の馬と3000頭のラクダを畑に放ちました。馬やラクダは自由に餌を手に入れながら畑を荒らして行ったのです。
それを知ったマディーナの若者達はムハンマドに何度も出陣を願い出ました。
それまで篭城論のみだった共同体も、さすがに畑を荒らされるのだけはたまったもんじゃないと思ったのでしょう。ついにムハンマドが野戦を決意して出陣します。
戦いに向かう途中でユダヤ教徒をマディーナに帰らせてイスラーム共同体だけの軍勢を整えました。
ユダヤ教徒を去らせた結果、ムハンマドの手元に残った兵力は僅か700人であり、馬は二頭しかいなかった。しかし、ムハンマドに心から付き従う者だけが残ったので士気は最高潮に達していたのです。
戦略的にはマッカ軍の後方に陣を張り(ウフド山の斜面でマッカ軍より高い位置になる)、町と陣でマッカ軍を挟み撃ちにしたのです。

兵士の数こそ少なかったが、戦いはムハンマドの予想通り、イスラーム軍の方が優勢に始まりました。
マッカ軍側としては騎兵隊を思うように使えなかった為に、力を出し切れないでいたようです。
しかし、イスラーム軍の隊列がわずかに乱れだ時、マッカ軍右翼のハーリド・ビン・アルワリード率いる騎兵隊が、素早く一瞬の隙を突き、イスラーム軍の側面と背後を攻撃し始めます。
この騎兵による奇襲は大成功しました。イスラーム軍はたちまち崩壊してしまいました。
この攻撃でムハンマドが戦死したというデマが広がったため、混乱したイスラーム兵たちの中には同士討ちを始める者も現われましたが、多くの兵はマディーナの町に逃げ帰ります。
一方、マッカ軍司令官アブー・スフヤーンは、逃げるマディーナ軍を深追いしませんでした。マホメットの死に確証がもてなかったこと(罠である可能性が残っている)や、既に兵士軍馬が傷ついていた事が主な理由でした。
マッカ軍側の死 者 27名
イスラーム軍の死者 75名
現代の戦争と違い、クラスター爆弾もなければ原爆もない時代です。飛行機がないので空爆もありません。剣と矢と軍馬を道具にして真剣勝負だったことでしょう。
という訳でムハンマド率いるイスラーム軍が負けました。
最初で最後の負け戦だったのですが、内容的には悪くありません。むしろムハンマド抹殺を目標に進軍してきたマッカ軍の方は目標を達成できずに引き返して行ったのです。
ムハンマドは、負けはしましたが、マッカ軍と同じように騎兵隊を作れば勝てるという自信がわいてきたようです。
627年 ところがところが、クライシュ族率いるマッカ軍は遊牧民やムハンマドに追放されたユダヤ教徒のナディール族などを引き入れて1万人の大軍を整えたのであります。そして、ムスリム勢力の殲滅を狙って侵攻してきたのでありました。
一方ムハンマド率いるイスラーム軍は、当時はまだアラビアにはなかった塹壕をイスラーム教徒全員で掘り進み、敵軍を待ち受ける事にしました。
クライシュ部族連合軍がメディーナの町を包囲したのは3月31日。3日間にわたってクライシュ部族軍の騎兵隊がイスラーム教徒軍が掘った塹壕を越えようとしましたが、ことごとく失敗しました。
ようやくマッカで最も偉大な英雄と評されるアムルと数名の騎兵達が塹壕にそって駆け回った結果、塹壕の幅が少し狭くなっているところを発見します。
そこで塹壕を飛び越えたアムル達は、イスラーム軍が集結している真正面に躍り出てしまいました。
剛胆な戦士としてアラブ中に恐れられるアムルに挑んだのは、待ち受けていたムハンマドの従兄弟のアリでした。アリは若いながらも勇敢に戦い、ついにはアムルを倒したのです。
アムルと共に塹壕を飛び越えてきた騎兵たちは、まさかの英雄の死に落胆して逃げ去り、そのうちの1人は塹壕に落ちて死んでしまいました。
メッカの英雄アムルの死はクライシュ部族軍の士気を落とし、彼らの最も強力な戦力である騎兵隊が敵の塹壕を越えれなかったことに失望します。クライシュ部族軍は夜間の攻撃も試みましたが、塹壕にはイスラム教徒軍の見張りが配置されていたので、これも成功しませんでした。
メディーナの包囲が予想以上に長びくクライシュ部族連合軍は、メディーナにいるユダヤ教徒のクライザ部族に使者を送り、イスラム教徒軍を背後から攻撃するように依頼しました。
クライザ部族はメディーナの南側に位置しているので、彼らの協力を得ることが出来ればイスラーム教徒軍を南北両方から攻撃することが出来ると考えたのです。
クライシュ部族がクライザ部族の支援を求めていることを知ったムハンマドは、壊滅的な危機を避けるために自らもクライザ部族に働きかけました。しかしながら、すでにクライザ部族はムハンマドとの協定を破って、クライシュ部族に協力する決心をしていたんですね〜。
クライザ部族はイスラーム軍を攻撃する条件として、クライシュ部族に人質を要求しました。もしもクライシュ部族連合軍が塹壕を越えて攻撃してこなかった場合、クライザ部族だけがイスラム教徒軍と戦わねばなりません。そのための保険として人質を要求したのですが、クライシュ部族には侮辱されたととられ、拒否されてしまいます。
結局、クライザ部族がクライシュ部族に協力することは無く、メディナ包囲は3週目に入りました。
このころ季節外れの冷たい強風が吹き始め、メディーナの北で野営しているクライシュ部族連合軍の戦意はどんどん低くなり、馬に与えるまぐさも不足してきました。
当然のようにメデイーナを包囲していた兵士たちが次々と撤退していきます。
このようにしてメディーナ包囲戦が大失敗に終ったクライシュ部族のダメージは相当なものでした。クライシュ部族連合軍は6名のイスラム教徒を殺しただけで、2年の歳月と莫大な費用をかけたメディーナ攻略をあきらめねばならなかったのです。
塹壕のことをアラビア語でハンダクと言うため、この戦いはハンダクの戦いと呼ばれるようになった。
マッカ部族連合軍を撃退したイスラーム軍はそのまま武装を解かず、マッカと通じていたメディーナ東南部に住むユダヤ教徒、クライザ族の集落に1軍を派遣して包囲襲撃し、この攻勢に耐えかねて無条件降服した彼らの内、戦闘に参加した成人男子を全員処刑して虐殺した。さらに女性や子供は捕虜として奴隷身分に落とさせ、彼らの財産を没収させたのでした(クライザ族虐殺事件)。
これが神のやり方なんだろうね?
つづく
その3
http://hiroto1.seesaa.net/article/110823675.html
その1
http://hiroto1.seesaa.net/article/110385940.html
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