2008年12月07日

イスラムっていうけど・・・? その3

 
 628年 ムハンマドはフダイビーヤの和議(ムハンマドとクライシュ族の間で結ばれた和議)によってマッカと停戦します。
 この和議は当時の勢力差を反映してマディーナ側にとっては不利なものでしたが、ムスリムの地位は安定し、以後の勢力拡大にとって有利なものでした。
 この和議の後、先年マディーナから追放した同じくユダヤ教徒系のナディール部族の移住先ハイバルの二つの城塞に遠征を行い、再度の討伐によってこれを降伏させた。これによりナディール部族などの住民はそのまま居住が許されたものの、ハイバルのナツメヤシなどの耕地に対し、収穫量の半分を税として課した(ハイバル遠征)。

 これにともないムスリムもこれらの土地の所有権が付与されたと伝えられ、このハイバル遠征がその後のイスラーム共同体における土地政策の嚆矢、征服地における戦後処理の一基準となった言われている。
 しかし、ユダヤ教徒側と結んだ降伏条件の内容や、ウマルの時代に彼らが追放された後ムスリムによる土地の分配過程については、様々に伝承されているものの詳細は不明な点が多い。

 この遠征の後、ファダク、ワーディー・アル=クラー、タイマーといった周辺のユダヤ教徒系の諸部族は相次いでムハンマドに服従する事になった。自信を深めたムハンマドは、ビザンツ帝国サーサーン朝など周辺諸国に親書を送り、イスラームへの改宗を勧め、積極的に外部へ出兵するなど対外的に強気の姿勢を示した。

 630年にマッカとマディーナで小競り合いがあり停戦は破れたため、ムハンマドは1万の大軍を率いてマッカに侵攻した。
 予想以上の勢力となっていたムスリム軍にマッカは戦わずして降伏した。
 ムハンマドは敵対してきた者達に当時としては極めて寛大な姿勢で臨み、ほぼ全員が許された。しかし数名の多神教徒処刑された。
 カアバ神殿に祭られる数百体の神像・聖像はムハンマド自らの手で破壊された。

マディーナ.jpg

 晩年 ムハンマドマッカイスラムの聖地と定め異教徒を追放した。
 ムハンマド自身はその後もマディーナに住み、イスラーム共同体の確立に努めた。さらに1万2000もの大軍を派遣して敵対的な態度を取るハワーズィン、サキーフ両部族を平定した。

 以後、アラビアの大半の部族からイスラムへの改宗の使者が訪れアラビア半島はイスラムによって統一された。
 またビザンツ帝国への大規模な遠征もおこなわれたが失敗した。

メッカ4.jpgKaaba.jpg

 632年 マッカへの大巡礼(ハッジ)をおこなった。このときムハンマド自らの指導により五行(信仰告白、礼拝、断食、喜捨、巡礼)が定められた。
 大巡礼を終えてまもなくムハンマドの体調は急速に悪化した。ムハンマドはアラビア半島から異教徒を追放するように、自分の死後もコーランに従うようにと遺言しマディーナの自宅で没し、この地に葬られた。彼の自宅跡と墓の場所はマディーナ預言者モスクになっている。

 預言者ムハンマドは複数の未亡人を妻として迎え入れたが、コーランはこれを『戦争により夫を亡くした女性の地位を守るため』と記述している。
 12人目を迎え入れた際、神からの啓示が下され、迎え入れた女性に対し平等に接するため、妻は4人までと定められたとコーランには記されている。

つづく
その4
http://hiroto1.seesaa.net/article/120815874.html

その1
http://hiroto1.seesaa.net/article/110385940.html

その2
http://hiroto1.seesaa.net/article/110645967.html
posted by 大翔 at 09:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス: [必須入力]

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック
RDF Site Summary
RSS 2.0 ブログ内情報
最近のコメント
豊洲問題 公明党の質問に対して「退職者含め責任明確に」 小池氏、処分に言及 by 大翔 (10/09)
豊洲問題 公明党の質問に対して「退職者含め責任明確に」 小池氏、処分に言及 by くま8 (10/06)
四国の伊方原発の再稼働 愛媛県知事「福島とは同じことは起こらない」 by 大翔 (08/21)
四国の伊方原発の再稼働 愛媛県知事「福島とは同じことは起こらない」 by 福原一郎 (08/15)
血税に群がる蚊 by 大翔 (02/03)