2015年03月03日

この親ありてこの子あり。三船美佳も18歳の少年も同じじゃないの?

 今日から裁判なんですってね。
 帰ってくるとをついて子供と親を連れて大阪に移り住んだ人の証拠がモラハラの本?
 この親ありてこの子ありですよね。
 三船美佳といえば三船敏朗の娘です。
 三船敏郎は1920年4月1日生まれ
 三船は1950年(昭和25年)、東宝第一期ニューフェイスで同期だった女優・吉峰幸子と結婚、同年に息子の三船史郎をもうける。幸子は四十五年にわたる結婚生活を、「次男坊(武志)が十歳になるくらいまではよかった」と、友人に語っており、1970年(昭和45年)あたりまで夫婦関係は順調だったことがうかがえる。1970年代に入ると夫婦関係は冷め切ったものとなり、三船の酒乱に悩まされた幸子により、三船は家から追い出される。しかし本心は三船との関係修復を望んでいたという。そのため、幸子は自分から三船を追い出したが、三船が離婚しようとするとこれを拒否。幸子は三船側より離婚訴訟が起こされるに及んだが、離婚届に判を死ぬまで押さなかった。この離婚裁判の間に三船は女優・喜多川美佳(大野 照代(おおの てるよ)1948年10月28日-)と交際し、1974年に来日した米フォード大統領を迎賓館に招いた歓迎晩餐会では喜多川美佳を妻として同伴して出席している。
 1982年、喜多川(34)との間に娘(三船美佳)をもうけ、喜多川の芸名である「美佳」を娘にそのまま付けた。娘・美佳が生まれて間もないころ、三船は喜多川と娘・美佳を連れてマスコミの前に現れて親子三人の写真を撮らせている。娘の美佳とはかなり年が離れているため、親子というよりはむしろ孫と祖父に見られる事も多かったという。けれども、1992年(平成4年)に心筋梗塞で倒れたのをきっかけに、三船は喜多川美佳から関係を解消され、三船の看病を希望した幸子のもとに戻った。それ以後、幸子は時節体調のすぐれない三船を支え、円満な夫婦関係であったという。1995年、幸子が死去し、45年間の結婚に幕が下りた。

 子供なんて所詮親の背中を追いかけているだけなんですよ。
 変えられない三船と喜多川の宿命の流れに高橋ジョージがハマったんでしょうね。
 見極め力がなかったというか、力不足だというか、勉強不足。
 おそらく人間として大野 照代と三船美佳(32)と娘が反省する日は来ないでしょう。
 も増えそうですね。
 一人の男として、一人の女として、人間として、成長できたら奇跡でしょう。

 ごくごく稀にアホな親から奇跡のような親思いの子供が生まれるだけで、努力なしに誰でもなれると思っていたら大間違いですよね。
 夫婦でも国家間でも、会話できない人は暴力しかしませんね。

タグ:三船美佳
posted by 大翔 at 14:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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