2010年01月26日

<10年春夏パリ・オートクチュールコレクション>クリスチャン・ディオール、新作を発表


 オートクチュールといえば、フランス語で、

 オート(haute)は高級

 クチュール(couture)は仕立て服

 つまり、パリの高級仕立て服なのです^^

 二着目1000円とかじゃないんですよね〜。

 私はもっぱら後者でして、二着目1000円なら一着目をもっと安くして〜と思っている貧乏人です。

 それはさておき、クリスチャン・ディオールという男のお話です。


 1905年。クリスチャン・ディオールはフランスは北西部に位置するノルマンディー、Mancheのグランヴィルで実業家の家庭に生まれました。

 なんだか羨ましいですね〜^^

 1920年から1925年12月までフランスはパリの政治学院に学びます。
 彼の両親はディオールに外交官の道を歩んでもらいたいと望んでいました。でもディオールは芸術に強く引かれて行くのです。

 1928年に彼が小さなアートギャラリーを親からの出資で持ち、パブロ・ピカソやマックス・ジャコブなどの絵を置いた。だが、家庭の財政的な問題により2年でギャラリーを閉鎖する事になる。
 1930年代に、ディオールはオートクチュールハウスのためにスケッチデザインをやることによって、生計を立てた。
 1938年に、彼はロバート・ピゲと仕事をして、後にリュシアン・ルロンのファッションハウスのデザイナーとして仕事に加わった。そこで、ディオールとピエール・バルマンは主要なデザイナ−であった。
 1945年、ディオールは彼自身で事業を始めた。ディオールのファッションハウスは1946年12月マルセル・ブサック(綿のファブリック王)の援助もありパリ、アベニュー、モンテーニュ30番地に設立され、翌1947年2月には最初のファッションショーを開催。

 戦後のファッションの指針を示したディオールは47年から57年までの11年間、パリのオートクチュール界の頂点に君臨する。彼は毎シーズン、ラインというテーマに沿って作品を発表した。

CHANEL(シャネル) 財布 販売館

↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
素晴らしい すごい とても良い 良い
posted by 大翔 at 18:05 | 青森 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | ファッション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月27日

<09年春夏パリ・オートクチュールコレクション>クリストフ・ジョス、新作を発表



カンタン豆知識

★プレタポルテとは、フランス語ですぐ着れる服を意味する「プレ」と着るを意味する「アポールテ」からなる言葉で、1945年にアメリカの既製服の業態を取り入れてから、元々使っていた既製服を意味するコンフェクションについていたみすぼらしいイメージを変える為に使用された単語です。(便所→トイレみたいなもんです)

★オートクチュール(Haute couture) とは、フランス語で高級仕立て服という意味で、一点物の注文高級服のことをいいます。

 こんなオートクチュールなら、大好きです♪

posted by 大翔 at 18:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | ファッション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月07日

マドンナ、ルイ・ヴィトン09年春夏キャンペーンの顔に


【12月5日 AFP】「ルイ・ヴィトン(LOUIS VUITTON)」は09年春夏キャンペーンモデルに歌手のマドンナ(Madonna)を起用すると発表した。

 舞台は40年代のムード漂うパリのバー。新作バッグを手に、ミニスカートとデコラティブなサンダルを身に着けたマドンナを撮影したキャンペーン広告は、来年の2月から世界中で展開される。

 アーティスティック・ ディレクターのマーク・ジェイコブス(Marc Jacobs)は、「今回のキャンペーンをとても大胆でセンシュアルで、雰囲気のあるものにしたかった。それを成功させるには、最高のパフォーマーが必要だった。僕にとっては、それがマドンナだったんだ」とコメントしている。(c)AFP


〜カンタン豆知識〜

 ルイ・ヴィトン(Louis Vuitton)はフランスのかばん職人ルイ・ヴィトン(Louis Vuitton、1821年8月4日 - 1892年2月28日)が創始したブランドです。
 LVMH(モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン)グループの中核ブランドである。

黎明期 (1854年〜1892年)

 ルイ・ヴィトンが評価されるようになったのは、創始者であるルイ・ヴィトンが亡くなった後のことです。
 ヴィトンは、まず「グリ・トリアノン・キャンバスGris Trianon」というトランク工場として創始されました。このトランクは、灰色のキャンバス地で覆われており、とても軽量なものでした。

 1854年、彼はエミリー(Emilie Clemence Pariaux)と結婚、3年後の1857年には息子のジョルジュ・ヴィトン(Georges Vuitton)が誕生。
 1859年、アニエールに最初のアトリエを構える。
 1860年、ヴィトンは需要に押されて規模を拡大しました。
 1867年、ルイ・ヴィトンは世界博覧会で銅メダルを獲得。これにより、世界的な評判を得、1869年にはエジプト総督のイスマーイール・パシャが、1877年にはロシアのニコライ皇太子(後のニコライ2世)がそれぞれ、1セットのトランクを発注しました。
 また、当時の世界的に力を持っていたスペイン国王アルフォンソ12世からも、トランクの注文を受けることとなりました。
 
 トランクの上から、布地を貼るというヴィトンの技法は賢明でしたが、容易にコピー商品が出回ることとなり、1872年、ヴィトンは別の布地を使うようになりました。
 この布地は、「Striped Camvas」として知られているベージュと赤の2色で色づけされた布地でした。しかし、この布もすぐにコピー商品が出回ることとなってしまいます。
 でも、コピー商品に押されることなく、彼のビジネスは成功を収めていきます。

 また、私生活の方も衰えることはなく、1880年には息子のジョルジュ・ヴィトンがジョセフィーヌ(Josephine Patrelle)と結婚。入籍当日に、彼は息子にスクリーブ通りの店を任せます。
 その3年後、ジョルジェにも子供が産まれ、ルイ・ヴィトンは祖父となりました。
 1885年、ルイ・ヴィトンはロンドンに進出。
 1888年、息子ジョルジュが、ベージュと茶褐色のチェス盤に、ルイ・ヴィトンの銘が入った「ダミエ・ライン」と呼ばれるデザインを考案。
 1889年のパリ世界博覧会で、ルイ・ヴィトン社に金賞をもたらした。しかし、商標登録もされていたにも拘らず、またコピー商品が出回ることとなってしまう。現在は白と灰色の「ダミエアズール・ライン」もある。
 1890年、5枚羽の錠前を開発。
 1892年、ルイ・ヴィトン社はハンドバッグの販売を開始、トランクやハンドバッグなどが掲載された最初のカタログもリリースされた。その年の2月27日、ルイ・ヴィトンは自宅で息を引き取り、ジョルジェ・ヴィトンが会社の全権を握ることとなった。
 1854年 世界初のトラベル・ラゲージ専門店をパリに創業。
 1885年 国外第1号店をロンドンにオープン。
 1888年 模倣品の防止の為から、ダミエのデザインを考案する。

黄金期(1893年〜1936年)

 ルイ・ヴィトンの死後、Georges Vuittonはルイ・ヴィトン社を世界的な企業へと押し上げた。Georges Vuittonは、1893年のシカゴ世界博覧会に出展するなど、会社をうまく運営し続けると共に、著書「Le Voyage」(フランス語で旅という意味)を出版した。
 1896年、ヴィトン社はそのトレードマークとなる布地を発表しました。
 モノグラム・ラインと呼ばれることになるその模様は、様々なシンボルと共にルイ・ヴィトンを示す「LV」というマークが描かれています。
 Georges Vuittonは、その後アメリカへ航海し、ニューヨーク、シカゴ、フィラデルフィアなど、様々な町を旅行し、その訪問中にもヴィトン製品を売って歩いていた。
 1898年、Georges Vuittonは、パリ・オートショーにヴィトン製品を出展。
 1900年、Georges Vuittonはパリ世界博覧会の「旅行アイテムおよび革製品」の部門を担当するという栄誉を得た。1901年、ヴィトン社は、トランクの中に入れることのできる小さなカバン「スティーマーバッグ」を発表しました。
 3年後の1904年、Georges Vuittonはセントルイス世界博覧会において、議長を務めため、同年ヴィトン社は、新商品として、香水や衣類などの商品を小分けにできる仕切りの付いたトランクを発表しました。
 1914年、パリのシャンゼリゼ通りに世界最大のトラベル・グッズ専門店をオープン。
 1896年 ダミエの模倣品が出回ってきた事からモノグラム・キャンバスを考案。

ビジネス拡大(1937年以降)

 1981年 日本初の店舗を東京・銀座にオープン。
 1989年 香港初の店舗をオープン。
 1983年 アメリカズカップの挑戦艇選抜シリーズ、ルイ・ヴィトンカップがスタート。
 1985年 エピ・ラインを発表。
 1987年 ルイ・ヴィトンとシャンパン製造会社のモエ・ヘネシーとの合併によりLVMH モエ ヘネシー ルイ・ヴィトンが誕生。
 LVMHグループは今日、クリスチャン・ディオールやフェンディなど有名ブランドを傘下におさめる巨大ブランド企業に成長。
 1992年 中国初の店舗を北京にオープン。
 1998年 バッグだけにとどまらず本格的にファッション界に進出。デザイナーにマーク・ジェイコブスを迎えプレタポルテとシューズのコレクションを発表。また、モノグラム・ヴェルニラインもあわせて発表。
 1999年 ミレニアムに向けての限定品を3種発表。サイバーエピライン(エナメルのようなエピ地にブラックライトを当てるとモノグラム柄が浮き出てくる)のアジェンダPM(6穴バインダー手帳)・グッド・ラック・ブレス、ミニトランク。 
 2003年 日本人デザイナー村上隆とのコラボレーションにより、黒地あるいは白地にモノグラムをカラフルに配した「モノグラム・マルチカラー」を発表。このときに発表された商品の中にはモノグラム模様の中に、にこにこマークが描かれた桜の花を配した商品「モノグラム・チェリーブラッサム」や、大きな革製のリボンがついた商品なども発表された。同時に、村上隆のキャラクターであるパンダをモノグラムの上に描いたシリーズ「モノグラム・パンダ」も発売。
 2004年 2003年と同じく村上隆とのコラボレーションにより、「モノグラム・チェリー」ラインが発表された。これは、前年のサクラシリーズよりは少し落ち着いているものの、モノグラム地の上に、サクランボのイラストを載せるというデザインであった。
 2005年 秋冬コレクションとしてキャンバス地のカジュアルなシリーズ「アンティグア」が発表された。ナチュラルな生成と真っ赤なキャンバス地が素材である。
 2006年 春夏コレクションとして、モノグラム地にパンチングを施し、穴を開けた素材の「モノグラム・ペルフォ」、デニム素材の「モノグラム・デニム」が発売。
 2007年 秋冬コレクションは、カラフルなモノグラムマルチカラーをファーの上にプリントした「モノグラム・ミンク」とメタリックな素材の「モノグラム・ミラー」を発売。2月にはバレンタインラインとして、ハート型の小銭入れ「ポルトモネ・クール」、春コレクションは、モノグラムにフレンチレースを刺繍した「モノグラム・レース」、「デニム・パッチワーク」、「ポルカドット」など少数生産、多数コレクションへになりつつある。7月にはアメリカズカップへのスポンサード打ち切りを発表。

 参考資料 Wikipedia
posted by 大翔 at 09:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | ファッション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月15日

【動画】<09年春夏パリ・コレクション>ジャンバティスタ・ヴァリ、新作を語る


【10月14日 AFP】フランス・パリ市内で10月2日には、ジャンバティスタ・ヴァリ(GiAMBATTiSTA VALLi)が09年春夏コレクションを発表した。今シーズンのテーマは「変形・変質」。ジャケットやドレスに、重ねた布辺やボウ、布のねじれを操りながら自在にボリュームを乗せてゆく。黒、白、アイボリー、クリームといったカラーパレットは写真家アーヴィング・ペン(Irving Penn)の作品にインスパイアされたもの。会場のフロントロウには、女優のナタリー・ポートマン(Natalie Portman)ら多くのセレブリティが駆けつけた。コレクションに際し、ヴァリが新作について語った。(c)AFP/parismodes.tv
posted by 大翔 at 08:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | ファッション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月10日

【動画】<09年春夏パリ・コレクション>ジバンシィ、新作を発表



【10月8日 AFP】フランス・パリ市内で1日、「ジバンシィ(GIVENCHY)」が新作を発表した。デザイナーのリカルド・ティッシ(Riccardo Tisci)は、ゴシックをベースに、ウエスタンとフェティッシュなボンデージの要素を加えた強いスタイルをみせた。デニムとレザーを切り替えたパッチワークのパンツ、グラフィカルなカットのレースアップトップス、大胆なカットのレザーベスト。イエローのシフォンにうろこのような装飾を施したミニドレスも印象的だった。(c)AFP/parismodes.tv


〜カンタン豆知識〜

 ジバンシイ (Givenchy) は、ユベール・ド・ジバンシィ(Hubert de Givenchy、1927年2月21日 - )が1952年に設立した、フランスのファッションブランドである。
 世界的に服飾、装飾品、香水および化粧品などのファッション用品を展開している。
 現在はLVMHグループに属しており、ディオールに次いで2番目に大きい部門となっている。
 有名な顧客にオードリー・ヘップバーンギネス家、グリマルディ家ケネディ家がある。ヘップバーンは『麗しのサブリナ』、『おしゃれ泥棒』、『シャレード』、『ティファニーで朝食を』などの映画でジバンシィによる衣装を着用した。
 また、ケネディ家の女性たちがジョン・F・ケネディ第35代アメリカ大統領の葬儀においてジバンシィのデザインした喪服を着ていたことも有名である。

〜略歴〜

1927年 - パリ・ボーヴェに生まれる。5歳で父と死別し、祖父の元で育つ。
1937年 - パリ万博での衣装の展示を見たのがきっかけでデザイナーを志す。17歳でファトのメゾンに入る。ロベール・ピゲやルシアン・ルロンのもとを経て、スキャパレリのメゾンに行く。
1952年 - 独立し、ジバンシィ社設立。初コレクションを行う。斬新なアイデアとシャープな感性が絶賛され、「モードの神童」と呼ばれる。
1954年 - オードリー・ヘプバーン主演映画『麗しのサブリナ』の一部の衣装を担当。
1955年 - 「自由なライン」として発表したウエストもヒップもないシュミーズ・ドレスが「革命的な衣装」として反響を呼ぶ。
1956年 - レディースウェアライン「GIVENCHY UNIVERSITY」を発表。
1962年 - 香水発表。
1968年 - 「ジバンシィ・ヌーベル・ブティック」開設。
1972年 - 男性化粧品発表。
1973年 - メンズウェアライン「GENTLEMAN GIVENCHY」を発表。
1978年 - デ・ドール賞を受賞。
1995年 - ユベールが引退する。後任デザイナーにジョン・ガリアーノが抜擢される。
1996年 - アレキサンダー・マックイーンがレディースラインオートクチュールとプレタポルテの主任デザイナーに就任。
1999年 - 「GENTLEMAN GIVENCHY」を「GIVENCHY」に改称。
2000年 - マックイーン、この年の春夏シーズンよりメンズも手がける。
2001年 - 秋冬シーズンより、ジュリアン・マクドナルドがレディースのオートクチュールとプレタポルテの主任デザイナーに就任。
2003年 - オズワルド・ボーテングがメンズラインの主任デザイナーに就任する。
2005年 - リカルド・ティッシがレディースラインの主任デザイナーに就任する。

参考資料Wikipedia
posted by 大翔 at 08:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | ファッション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月09日

【動画】<09年春夏パリ・コレクション>ゴルチエ、エルメス新作を語る


 【10月8日 AFP】フランス・パリ市内で4日、ジャンポール・ゴルチエ(Jean Paul Gaultier)が手がける「エルメス(HERMES)」が新作を発表した。サボテンと砂がセットされたメキシコ国境の砂漠地帯のようなステージに現われたのは、ポンチョやフリンジなどのディティールをラグジュアリーに仕上げたエルメス流ウエスタンスタイル。ショーの幕開けを飾ったスーパーモデルのステファニー・シーモア(Stephanie Seymour)とナオミ・キャンベル(Naomi Campbell)も、カウボーイハットとフリンジスカートに身を包んだ。ウォッシュドデニムのような絶妙なグラデーションに染め上げたクロコダイルレザーのジャケットやキャラメル色の薄いジャケットも登場。スウェードのつば広ハットやエルメスの頭文字付きカウボーイハットなどがウエスタンな気分を盛り上げた。コレクションに際し、ゴルチエが新作について語った。(c)AFP/parismodes.tv
 
〜カンタン豆知識〜

■ジャン=ポール・ゴルティエ(Jean-Paul GAULTIER, 1952年4月24日 - )はフランス・パリ生まれのファッションデザイナーであり、また彼の持つファッションブランドである。

 祖母がお針子で洋裁の基本を幼時から遊び乍ら身に付け、デザイナーになるための教育は受けなかったという。その代わり、自分のスケッチをスタイリストなどに送り、認められてピエール・カルダンのアシスタントになった。
 1976年に初めて自分のレディース・コレクションJean-Paul GAULTIERを発表。
 1978年にオンワード樫山とスティリスト契約を結び独立。
 1980年代には下着ルックやボンデージ・ファッションなどを発表して話題になった。
 1984年春夏からメンズ・コレクションを発表。
 1997年春夏コレクションからオートクチュール・コレクションGAULTIER PARISも発表している。

 2004年秋冬からエルメスのレディース・プレタポルテのデザイナーも兼任している。

 映画の衣装もしばしば手がけている。

「フィフス・エレメント」(リュック・ベッソン)、
「コックと泥棒、その妻と愛人」(ピーター・グリーナウェイ)、
「キカ」(ペドロ・アルモドバル)
「ロスト・チルドレン」(ジャン・ピエール・ジュネ)などは彼の作品である。

 マドンナの舞台衣装も製作したことがある。また、クリス・カニンガムが手掛けたプロモーション・ビデオFrozenでもマドンナは彼のドレスを着ている。

 日本のアーティストにもファンが多く、80年代に活躍したBO?WYの衣装を手がけたり、1989年には、THE ALFEEのライブとゴルティエのファッションショーが融合したイベントツアー「THE ALFEE with Jean-Paul GAULTIERツアー」を催した。
 このツアーでは、ALFEEのメンバーの衣装をJean-Paul GAULTIERで統一。前半と後半の間では15分間のファッションショーが催された。

 宝塚歌劇花組公演「SPEAKEASY〜風の街の悪党たち」(1998年上演)や星組公演「プラハの春」(2002年上演)の衣装も手がけたことでも知られている。

■エルメス (Herm?s) は、フランスの会社、エルメス社が展開するファッションブランド、商標名のこと。エルメス社は馬具工房として創業したが、自動車の発展による馬車の衰退を予見し、鞄や財布などの皮革製品に事業の軸足を移して成功した。

 現在でも、馬具工房に由来するデュックとタイガーがロゴに描かれている。デュックは四輪馬車で、タイガーは従者のこと。主人が描かれていないのは「エルメスは最高の品質の馬車を用意しますが、それを御すのはお客様ご自身です」という意味が込められているため。

〜 歴史 〜

 エルメス社の母体になったのは、ティエリ・エルメス(1801年 - 1878年)が1837年に開いた馬具工房である。ナポレオン3世やロシア皇帝などを顧客として発展した。

 ティエリの孫にあたる3代目のエミール・モーリス・エルメス(1871年 - 1951年)は事業の多角化に着手した。

 1890年代には、馬具製作の技術を基にエルメス最初のバッグサック・オータクロア (sac haut-?-croire) を製作。

 1927年に時計を発表。さらに服飾品・装飾品・香水などの分野にも手を広げ、それらの製品のデザイン、製造、販売をすべて手がける会社になった。
 特に馬蹄柄のスカーフとケリーバッグで人気を獲得していった。ケリーバッグは1935年に発売されていたが、当初は「サック・ア・クロア」 (sac-?-croire) と呼ばれていた。後に女優のグレース・ケリーが愛用、特にカロリーヌ公女を懐妊し、写真を撮影された時とっさにお腹を隠したのがこのバッグであったことから有名となり、1955年に正式に改名された。「サック・ア・クロア」=ケリーバッグは本来、サドルバッグ(鞍に付けるバッグ)を婦人用に改良した物である。

 ケリーと同様の人気を誇るバーキンの名も、当時のエルメス社社長であったジャン・ルイ・デュマ・エルメスが飛行機の中でたまたまイギリス出身の女性歌手ジェーン・バーキンと隣合わせになり、彼女がボロボロの籐のカゴに何でも詰め込んでいるのを見て、整理せずに何でも入れられるバッグを作らせて欲しいと申し出たエピソードに由来する(なおバーキンの原型はオータクロアであるが、いまやオータクロアをはるかにしのぐ人気である)。

 このように、エルメスのバッグには発注者ないし最初の所有者の名が付いたモデルが多く存在する。比較的時代が新しいものでは、スーパーモデルのエル・マクファーソンが発注したエル(巾着型で、底の部分に化粧品を入れるための外から開閉可能な引きだしが付いている)、日本人男性が発注した大型旅行鞄マレット・タナカがある。

 日本では女性の支持率が高いが、バッグなどでは男性からの支持も高く人気も絶大であり特にフールトゥやエールラインは価格も手ごろなために定番バッグとして活躍している。

 またエルメス社が初めて作った社史は 漫画形式で、日本の漫画家竹宮恵子に依頼して制作した。

 2004年、マルタン・マルジェラの後継として、ジャン=ポール・ゴルチエがデザイナーに就任。

 2004年パリ・コレクションではエルメスの伝統である馬具・皮革製品を意識し、伝統に配慮しつつ、オレンジ・黒を中心とした鋭角的でかつブランドの風格を意識したデザインを発表した。

〜 エルメスグループの拡大 〜

 80年代から90年代にかけエルメスはシャツや帽子を発注してた会社を次々と買収していたが リシュモン(カルティエの母体)やLVMH(ヴィトンの母体)と異なり 職人技の維持を第一目標にしての事で、そのため買収対象は比較的小規模の会社に止まっている。

〜 エルメスと日本 〜

 日本初の直営店は、1978年に丸の内にオープンしたブティックである。エルメスの日本法人「エルメスジャポン」は1983年にエルメス社と西武百貨店との合弁で設立されたが、後にエルメスの100%子会社に移行した。
 エルメスの出店は西武系に限られず、大手百貨店の根幹店には比較的多く出店している。だが、三越にはあまり出店していない。これは、岡田茂社長時代、三越がネクタイ売り場でエルメスの贋物のネクタイを多数そうと知りながら販売していたことによる(本店直輸入の札を付けて販売していた事や、正貨で贋物を販売していた事がフランス本社の逆鱗に触れた)。

 なお、昭和天皇が1971年の訪仏時に身に付けていたネクタイも、御用達百貨店であった三越日本橋店のネクタイ売り場で購入されており、贋物であった。


参考資料 Wikipedia

posted by 大翔 at 23:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | ファッション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月06日

09年春夏パリ・コレクション エリー・サーブ、新作を発表





カンタン豆知識

★プレタポルテとは、フランス語ですぐ着れる服を意味する「プレ」と着るを意味する「アポールテ」からなる言葉で、1945年にアメリカの既製服の業態を取り入れてから、元々使っていた既製服を意味するコンフェクションについていたみすぼらしいイメージを変える為に使用された単語です。(便所→トイレみたいなもんです)
★オートクチュール(Haute couture) とは、フランス語で高級仕立て服という意味で、一点物の注文高級服のことをいいます。

 パリを代表するオートクチュールと言えば、なんたって「シャネル」や「ディオール」そして「ジバンシー」「ラクロワ」などが常連ですよね。そんな有名メゾンと並び、常に注目されているのが「エリー・サーブ」です。

 エリー・サーブはレバノン共和国の首都ベイルート出身の男性デザイナーです。

 レバノンは第一次世界大戦の時にフランスの委任統治下に置かれ、第二次世界大戦中に独立しました。

 その後も大国の思惑に振り回されて内戦が続きましたので、レバノンと聞くと「戦争」をイメージする方が多いかもしれません。
 
 そんな中、エリー・サーブ(1964年〜)は幼い頃から独学で服作りを始めます。
 レバノンにドレス職人が多かったことも影響の一つかもしれません。

 1982年、首都ベイルートを拠点に自身のブランドを立ち上げます。
 1997年に初コレクションを開催します。
 1998年からはプレタポルテコレクションをミラノで発表する。
 そして2002年のオスカー賞セレモニーで主演女優賞を受賞したハル・ベリーがエリー・サーブのドレスを着ていたことで一気に知名度を上げました。
 以来、ハリウッド・スターがレッドカーペットの上で頻繁に着用するようになりました。
posted by 大翔 at 11:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | ファッション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月04日

09年春夏パリ・コレクション シャネル


 
「私はシャネルの5番を着て寝るの^^」といったのはマリリン・モンローさん。
 この一言は当時のニッポン男子の心をも直撃したのではないでしょうか^^? 

 シャネル(CHANEL)は、ココ・シャネル(Coco Chanel、1883年8月19日 - 1971年1月10日)が興したファッションブランド。「古い価値観にとらわれない女性像」がブランドポリシー。

歩み
 1910年 - パリのカルボン通り21番地に「シャネル・モード」という帽子専門店を開店したのが始まり。
 1913年 - リゾート地ドーヴィルに第1号のモードブティックを開店。
 1915年 - ビアリッツに「メゾン・ド・クチュール」をオープンして、ココはオートクチュールのデザイナーとして本格的にデビューする。
 1916年 - 第1回シャネル・オートクチュール・コレクションを発表。安くシンプルで着心地がよく、無駄のない、ジャージー素材を取り入れたドレスが話題となる。
 1921年 - 本店をカンボン通り31番地に移転。シャネル初の香水「No.5」を発表。 脂肪族アルデハイドを大胆に使用した香調で話題となる。「No.5」は試作品番号。その後も、喪服でしか使われなかった黒い服を「リトル・ブラック・ドレス」として発表したり、 ツイード素材のスーツを発表して話題となる。
 1939年 - 第二次世界大戦の勃発とともに、香水とアクセサリーのブティック以外の全店を閉鎖する。
 1944年 - ココがナチス・ドイツによるフランス占領中を通じドイツ軍将校と愛人関係にあったため、連合軍によるフランス解放とともにスイスへの逃亡を余儀なくされる。
 1954年 - 閉鎖店舗が復活。カンボン通りの店を再開し、オートクチュール・コレクションも復活させる。
 1970年 - 香水「No.19」を発表。
 1971年 - 住居としていたホテル・リッツで、ココ・シャネル死去。その後、カール・ラガーフェルドがデザイナーに就任。ココのスタイルを守りながら、時代の空気を取り入れた新しいシャネルを提案し、ブランドとしての再興を果たす。
 1994年 - シャネルブティック本店(銀座並木通り)を開店。
 1996年 - 開店当時日本最大店舗として大阪・心斎橋店を開店。 2001年 - 日本最大の売り場面積を誇る東京・表参道店を開店。
 2004年 - 12月、銀座3丁目に銀座シャネルビル・旗艦店を開店。

 参考資料Wikipedia
posted by 大翔 at 12:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | ファッション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
RDF Site Summary
RSS 2.0 ブログ内情報
最近のコメント
指カレンダー by hamzeren (01/09)
指カレンダー by hestyfil (01/07)
指カレンダー by forbijonyn (01/07)
指カレンダー by sparrwindi (01/06)
指カレンダー by lighlava (01/06)
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。